開高健が読んで絶賛した作家と作品群を読んだ感想 名文を書くには名文を読むのが1番

書評

この記事では、開高健が読んで絶賛した作家と作品を読んだ感想を書いています。

名文を書くには名文を読むのが1番、と言われています。

文豪開高健が絶賛した本は、おもしろい本ばかり、そして名文でした。開高健がなにを読み、血肉にしたのかわかります。

開高健は何をどう読み血肉としたか

『 オーパー 』シリーズに、同行した編集者が書いた本『 開高健は何をどう読み血肉としたか

開高健の口からではなく、第三者から見た開高健を知ることができる本。開高健の自宅には、1万冊近くの本があったそうです。たくさんの本を読んでいるだろうなとは思っていました。想像以上でした。

開高健のエッセイ以外であれば、開高健が何を読んでいたのかよくわかる本です。

開高健は、ブックカバーを外し捨ててから本を読みだすと書かれていたので、ブックカバーを外し読みだしました。たしかにブックカバーがないほうが、文庫本が手にミートしますね。ブックカバーは捨てずに保管。開高健ほど太っ腹でなくセコいです。

文章を真似るまえに、形から入りましょう。

開高健は、作者に男たるもの、ジョークの一つも言えないとダメと言われたそうです。ジョーク本を読んで、ジョークを覚えようとしました。開高健の周りには笑いがあふれていたんだろうなと想像できます。

ジンをストレートで飲んでいたと聞けば、ストレートでジンを飲んでみたり。

ますます開高健が好きになった1冊。本の価格はちょっとお高いです。

開高健のジョークを学ぶのであれば、『 食卓は笑う 』『 水の上を歩く? 酒場でジョーク十番勝負 』がオススメ。

旧約聖書

開高健が『 風に訊け 』に、無人島に持っていくなら『 旧語訳 旧約聖書 』と書いていたので勢いで買いました。お値段なんと99円。

読めども読めども、ページなくならず。登場人物が多すぎて覚えれない。朝起きて1~2ページ読むのが精一杯。無人島にこの一冊と流れつきたくないですヨ。

エッセンシャル思考には、朝に読書をするのがよし、さらに名著を読むとよいと書かれています。毎朝チョボチョボと聖書を読んでいます。

日本の作家

開高健さんは、戦前の小説家では井伏鱒二中島敦梶井基次郎の三人をあげていた。開高健が好きな作家【 三文豪 】と勝手に命名している。

井伏鱒二

山椒魚

井伏鱒二といえば山椒魚。山椒の実の香りがするので山椒魚となづけられたと魯山人が書いていたと思います。

山椒の葉のように爽やかで、山椒の実のように余計な雑味がなくピリッとひきしまった文章。

『 山椒魚 』は、タイトルの山椒魚と短篇が10ほど収められています。読んだ感想としては、井伏鱒二の文章は読んでいて疲れません。

開高健のファンではありますが、豪華絢爛な語彙や濃密にびっしりとした形容された文章に疲れることがあります。井伏鱒二の文章は山椒魚が住む透明で明るい川のような文章であり、さらさらと流れる清流のように眼から脳へ文章を読めます。

人間のドロドロとした部分も書いているのですが、汚らしさ、いやらしさを感じずに読める不思議な文章だなと思いました。

『 山椒魚 』にしても、山椒魚の性格はあまりよくないにもかかわらず、どことなく山椒魚を憎めません。そして、悲劇的な終わりなのに悲しさがありません。なんかだか花びらがポツンとひとつ落ちたような軽い悲しさです。

余談ですが、『 山椒魚 』の終わりかたは、昔と今では違っていると筒井康隆さんが書いていました。昔の終わりかたはどのようなものだったのでしょうか。

あと印象に残った短篇としては『 屋根の上のサワン 』と『 大空の鷲 』が印象に残りました。どちらも鳥の話です。井伏鱒二は、言葉なき鳥たちの声を代弁し、雄大なる自然の情景を紙に落としこめる作家。

『 山椒魚 』は、中学生や高校生のころに読んだ記憶があります。いま読みかえしても井伏鱒二のどこに開高健がひきつけられたのか、また他の文豪たちをもひきつける井伏鱒二の文章の魅力はわかりません。未熟ものではわからないサムシングがある文章なのでしょう。

中学生や高校生のころよりもダムに沈むんでいく『 朽助のいる谷間 』の情景が心に沈みこむように感じられました。すこしは成長はしていると言ってもよいのでしょうか。

川釣り

随筆と短篇小説を集めた『 川釣り

井伏鱒二の文章は、句読点の位置が、絶妙な場所に配置されおり、非常に読みやすい文章だと思いました。古臭くなく、現代でも読みやすい作家さんだと思います。

エッセイの中でさらっと、太宰治が登場し、一緒に濁流に流されそうになっている場面では、ちょっとクスッとさせられました。井伏鱒二の文章は笑わせようとする場面ほど、真面目に書いているという評論を読んだことがあります。人を文章で笑わせようとするならば、真面目に書くことが大事なんですね。

井伏鱒二は、開高健と一緒に釣りにもいっています。釣りの秘伝が書かれた巻物が開高健記念館にはあるそうですよ、お近くのかたは足を運んでみてはいかがでしょう。

中島敦

中島敦は『 李陵 』『 山月記 』を読んだことはありました。開高健がおもしろいと言った作品は『 文字禍 』と『 悟浄出世 』の2作品。

中島敦全集を読み終わった感想は、もっと長生きしていれば、中国系の歴史小説や南国の暮らしのお話や先生をしていたときのお話などなど、中島敦の脳の中には、たくさんの小説のネタのストックがあったのではないでしょうか。

もっと長生きして、作品を発表してほしかった作者。

梶井基次郎

梶井基次郎は『 檸檬 』は読みましたが、他の作品はまったく読んでいませんでした。

梶井基次郎の小説を読んだ感想としては、いつも散歩してるな。それか寝てるか、悶々としているかですね。

ただ散歩しているだけの小説です。それだけで小説になるのがすごい。文章が綺麗なのか、語彙の選択がすばらしいのか、見た風景をそのまま文章にする技術がすごいのか、読みすすめたくなる不思議な魅力があります。

セミの鳴き声を表現している文章があります。その文章を読んでから、私の頭のなかで、セミの鳴き声は、梶井基次郎の文章に置きかわりました。

金子光晴

開高健の名言 』のなかで、開高健が暗唱できるほど読んだという本が紹介されていました。

マレー蘭印紀行』金子光春が、1930年ごろに東南アジアを旅行した記憶を書いた紀行文学。

文章は旧字体で、漢字や単語がわからない箇所がたくさんありました。勉強不足なり。

読んでいると、なんとなく開高健さんが影響を受けたであろう文章をみつけることができます。東南アジアの湿った空気、濃厚なジャングルの様子、ネットリ肌にまとわりつく汗などの表現に影響をうけたのかなと考えました。

開高健のファンでなくとも、日本紀行文学の最高峰でしょう。風景の美しさだけでなく、人間の悲しみ、残酷さを包括している紀行文。一読の価値あり。

幸田露伴

釣りが大好きだった開高健。もちろん釣りについての文学・エッセイも大好きです。釣り好きの作家としては、開高健と井伏鱒二の名前があがるでしょう。幸田露伴もかなり釣り好きだったようで、釣りの小説とエッセイを書いています。

青空文庫で読めるのが『 幻談 』『 蘆声(ろせい)』の2作品。

『 蘆声(ろせい)』も清澄でよい私小説と開高健は言っていました。しかし、よく書いたり、話したりしたのは『 太公望 』です。

『 太公望 』は、青空文庫に収められておらず、現在では昔に発売された原本を読むしかありません。中国に行ったことがない幸田露伴が、資料を読みあさり、思考をめぐらせ、太公望の真実にせまるベランメェ口調のエッセイ。

結論は、太公望は、釣り師でなくて、豚売りだった、と書いています。釣りのうまい人間を東洋では太公望と呼びます。通説をまっこうから否定する幸田露伴。釣り人たるもの、俗世から離れ清い心で釣りを愉しむものだと。お殿様の眼にとまるために釣りを使うとは、ケシカラン、というわけです。

『 太公望・王羲之 』は、昭和31年に発売されました。むずかしい漢字がおおく、話もあちらこちらに脱線します。読むのに苦労させられました。出口のない知識の迷路を歩かされるような錯覚を覚えます。

釣り好き小説家のパイオニア幸田露伴が、全力で遊びながら格調高い文体で書いた中国人物評『 太公望・王羲之 』

海外の作家・作品

一九八四年

一九八四年 』はエロティック、コケットリー、サディスティックな悦を感じ興奮させられる官能小説だと思いました。

イギリスでは、『 一九八四年 』は名前は知っているけど読んだ人が少ない小説と言われています。官能小説かホラー小説とおもい読んでみると、あら不思議、さくさく読めるでしょう。

一九八四年とすでに過ぎさった時代のイギリスが舞台です。『 一九八四年 』が書かれたのは一九四九年です。ジョージ・オーウェルが晩年に書いた作品です。一九八四年は、このような世界になっているのではと想像して書かれた本です。なら、古臭いのかと言われるとマッタク、ちっとも古臭くありません。作中に特殊な機械が登場します。その機械をいまある機械にあてはめると『 一九八四年 』に書かれている社会は実現できるでしょう。実現してほしい社会ではありませんが。

『 一九八四年 』のイギリスは独裁政権に支配されています。機械で監視され、歴史が塗り替えられ、市民を先導し、拷問も当然のように行われている社会です。その社会では性行為すら禁止されています。子どもを産むための性行為は禁止されていません。

主人公とヒロインは性行為をいたします。ヒロインの自由奔放ほがらかな性に主人公は耽溺します。小鳥がさえずるように、花びらが水をはじくような肌とふれあう性行為を覗きみる行為に興奮を覚えることでしょう。

しかし、主人公とヒロインの性生活を活き活きと書けば書くほど破滅への影が忍びよってくるのです。ドーベルマンのゾンビが窓を割って登場するような、映画序盤でアメフトのキャプテンと金髪ボインちゃんが◯害されるようなお約束はやってきます。破滅はいつやってくるのかドキドキヒヤヒヤしながら1ページ1ページめくる愉しみがあります。

そして、やはり、当然のように破滅はやってきました。主人公とヒロインは、拷問にかけられます。執拗で陰惨な拷問の描写と奔放で魅力的な性行為の描写の対比。惨がなければ、美も輝きません。また美があるからこそ、惨の残酷さが浮き彫りになるのです。

拷問を受けている様子は、主人公の男だけ書かれています。ここで『 一九八四年 』は、人の想像力をピクリと刺激するのです。ヒロインはどのような拷問を受けているのだろうかと。ここにサディスティックな喜びを感じ、興奮させられるのです。

拷問をうけ、自白し、釈放された主人公とヒロインはふたたび出会います。彼らに過去の輝きはありません。ピカピカの顔が写りこむほどのステンレスのようだった彼らは、叩かれ、切られ、凹み、傷だらけになり輝くことはありません。

いまを生きる我らにも、何かしらのメッセージ、インスピレーション、警告を訴えてくる『 一九八四年 』

あなたに似た人〔新訳版〕

開高健が編集長をつとめていた雑誌に掲載にされたロアルド・ダール著の『 テースト 』

『 テースト 』が、ふくまれるロアルド・ダールの短篇小説集『 あなたに似た人 』

ロアルド・ダールの名前を知らない人はおおいでしょう。しかし、『 チャーリーとチョコレート工場 』を知っているかたはおおいと思われます。その原作を書いたのがロアルド・ダールです。

新訳では『 テースト 』は、味と訳されていました。よちよちと英語を勉強している私の意見ですが、この短篇小説には『 テースト 』の訳のほうが、ミートするように思われます。日本でいうワインのティスティングがテーマの短篇小説です。ワインのうんちくを語る人間を冷やかしているような、尊敬しているような、ワインを語る人間がヒートアップしている様子を冷徹な眼で観察し、冷やした辛口のスパークリングワインのような短篇にしあげています。

開高健曰く「あの短篇(『 テースト 』のこと)は取材費が注ぎ込んであるという印象やね。」ロアルド・ダールは、たくさんの取材費を注ぎ込んでワインをたらふく飲み、その感想を『 テースト 』の文章に注ぎいれデカンタさせ香りをとき放ちました。

ワイン小説のオススメを教えろと言われれば、開高健の『 ロマネ・コンティ・一九三五年 』のつぎに、『 テースト 』をあげますね。

短篇小説は『 テースト 』をいれて11篇あります。どの短篇小説も、ブラックペッパーのホールを奥歯で噛んだように辛く、掃除をしていない便所の裏側を視たときの驚き、ヒマすぎる仕事をしている時の流れのよう静かに腐っていく感じを堪能できるブラックユーモア短篇小説たち。

あどけない若奥様の凶器・さしだされたゾッとする手・いつからなのと問いかけたくなる兵士・抑えきれないピーピング趣味・ノルかソルかの大逆転バクチ勝負・イジメられた人間のトラウマ・谷崎潤一郎に通じる耽美なイレズミ物語・人間の肌の下に隠しきれない差別意識・貴族の高貴で静かなジェラシーの断頭台。すべての短篇小説の後味は、はじめてブラックコーヒーやビールを飲んだときのように甚だにがく感じられます。大人たるもの、一流の苦味も愉しみたいものです。

対談 美酒について―人はなぜ酒を語るか 』で開高健はロアルド・ダールの文章を「文章が夏向きだから、ジンジャーエールのように、単純だけど深さがあって、ヒリヒリしててうまいと思うんだけどね。」と評しています。

吉行淳之介はロアルド・ダールを「得な男ですよ。それほど傑作をたくさん書いてないものな。」と評しています。『 テースト 』については、うまかったと言っています。『 あなたに似た人 』を読むかぎり、傑作をたくさん書いてないもの、とは言えないと思います。あなたは、どう思いますか。

最後にひとつだけ、『 あなたに似た人 』のタイトルがついた短篇小説は収録されていません。

ガリバー旅行記

児童文学で読んだかたも多いであろう『 ガリバー旅行記

開高健が東欧を旅行したときに、スウィフト・ジョナサンはどう?と尋ねると、古すぎるよ、と皆が答えたとエッセイに書かれていました。半世紀のまえですら『 ガリバー旅行記 』は、古いイメージでした。

児童文学で読んで、はい、終わりの人も多いでしょう。私もその一人でした。開高健は、児童文学だけで終わるのでなく、まるまる一冊を読むべきだとエッセイによく書いています。そこで『 ガリバー旅行記 』を読み通してみました。

小人の国や巨人の国に行くのは、みなさんご存知でしょう。天空の城や日本が登場するのは知っていましたか。そしてガリバーが最終的にどうなるのか、ご存知でないかたのほうが多いのではないでしょうか。

小人の国では、争いの元凶を皮肉ったり、巨人の国では、金にまつわる汚さ、寿命がない人間の苦悩。人間の汚い、おぞましい、卑猥な心のうちを寓話にしたてあげています。そしてラストには、人間によく似た生物が登場します。その生物を見て、ガリバーは何を思うのか。

長い時を経ても、『 ガリバー旅行記 』は寓話として色あせていないと感じました。児童文学だけでなく、読み通す価値はあります。

チェーホフ作品集・28作品⇒1冊

チェーホフは生存中に、ある作品について”これこそロシアだ!”という意味の激賞の言葉を贈られているが、ロシア人の心を知りたければチェホーフを読めとはいまだに専門家が口にしている言葉であるらしい。あの深い簡潔さや、たじたじとなるような率直さや、広大な森を風がわたっていくような口調、口のなかでくぐもってコトバにはなりきっていないが鮮明な感触をあたえる暗示、透明な洞察など、無残さのよこに佇んで何もかもを目撃しながら途方にくれたおだやかな茫漠さで分泌するあの笑いの味といっしょに、この人の魅力にはちょっと類のないものがある。

引用元:開高健の文学論

なにも付けくわえることはありません。チェホーフを紹介している開高健の完の璧な文章。

読んだ印象としては、開高健が書いているとおりの印象をうけました(ほんまかよ)。

まのぬけた喜劇役者が演じる混沌とした悲劇のような、虐げられている人間がどこかココじゃないドコかに逃げ出したいと訴えてくるような、悲劇的な話なのだが、どこかカラッとしており、悲しみがカルピスのように薄れているのだが、最終的には悲劇的な場所に到達します。

悲しみが薄れている原因としては、チェーホフの文章には、ユーモアが文章に影響しているのではと書かれていました。シンプルなユーモア・簡潔な文章で淡々と事実を刻んでいく文章は読みやすさもあり、凄惨な悲惨もコンニチワしている息苦しさも感じられました。

ロシア文学といえば、『 カラマーゾフの兄弟』の兄弟に代表されるように、バイカル湖の深度よりも濃密な描写、広大なシベリアを黙々と耕すような文章、かつ万里の長城よりも長編な小説がおおいです。チェーホフの小説は、『 カラマーゾフの兄弟 』にくらべると、ショートもショート小説です。

ロシア文学の入り口にして、深淵のゴールとも感じられる。チェーホフ如何?

大帝ピョートル

「恐ロシア」というネット言語が嫌いです。『 大帝ピョートル 』を読み終わった瞬間「恐ロシア」とつぶやいていました。

「どの大名や君主には仕えたくないか」と、尋ねられたら人は、織田信長や曹操をあげる人がおおいのではないでしょうか。私が仕えたくない君主を言えと言われたら晩年の豊臣秀吉、明の朱元璋。そして小説の主人公であるピョートル1世をあげます。

どこの国でもそうですが、皇帝が死んだあとには、王冠を奪いあう血の流しあいがはじまります。ピョートル1世もソフィアという偉大なる女傑から王冠を奪いました。「ソフィア 絵画」でググルと強烈な顔をした女傑の絵画がでてくるでしょう。顔のインパクトもありますが、窓の外を見てもらいたい「恐ロシア」の意味が分かると思います。

ピュートル1世は、オランダの東インド会社で船大工として働いたこともあるフレンドリーな性格です。ロシアを強国にするために、すこし強引に海軍を作ったり、もっと強引に新都を作ったり、戦争で領土を拡げたりと大活躍。ロシア帝国で二人しかいない大帝の称号をもらいます。

「偉大な君主じゃないか」と、思った方もいらっしゃられるでしょう。ロシアといえばウォッカ。ピョートル1世の時代も宴といえばウォッカ。部下がウォッカを飲まなければ、斧で部下の頭をカチ割ります。比喩でもなんでもありません、斧で頭をカチ割ります。そして血をポンチにして飲みます。

妾の腹をかっさばいて解剖の授業をはじめたり、妾が浮気をしたときは浮気相手の首をウォッカ漬けにしたりとピョートル1世の説話にはことかきません。

恐ろしい君主ですが、ロシア国民には人気があったそうです。本には書かれていませんが、ピョートル1世の娘が王座を争ったときに、ピョートル1世の名前をだし軍人たちの指示を集めました。

ロシアという国は、日本人には理解できない恐ろしい国だと改めて思いました。

恐ろしさでいえばピョートル1世と並ぶロシアのイヴァン雷帝。もう1人の大帝であり女帝でありロシア人でないエカテリーナ。ナポレオンを敗走させたアレクサンドル一世。この3人の小説も『 大帝ピョートル 』の作者アンリ・トロワイヤは書いています。

アンリ・トロワイヤのロシア皇帝シリーズを読めば、ロシアの歴史の概略をつかめるでしょう。

ジンギスカン

モンゴルにイトウを釣りにいった開高健は、ジンギスカンとモンゴル帝国に興味を持ちます。ジンギスカンの陵墓を探すプロジェクトも立ちあげます、しかし、夢はなかばで潰えました。モンゴル関連の本も集め、モンゴルの歴史小説の構成も頭のなかにあったのかもしれません。

ジンギスカン、その人は、世界の偉人有名ランキング、戦争に強いランキングの5本の指にはいるであろう偉人。中国からヨーロッパまで征服した帝国の礎を築いた人物だと知っている方は多いでしょう。何をしたかを知っている人は多くても、どのようにして大帝国を築いたのかは知らない人が多いのではないでしょうか。

ラーフ・フォックス著『 ジンギスカン 』では、ジンギスカンがどのようにして大帝国の礎を築いたのかが客観的に正確(100年ほど前に書かれた本なので現在の情報と違う箇所もある)に記述されている小説です。ジンギスカンの人生をテレビカメラを使いドキュメンタリー作品や映画を撮影するように、私情を交えずに淡々と分かりやすく、それでいて読者を飽きさせないように工夫して文章を書いた、と作者はあとがきに書いています。

100年前に書かれた『 ジンギスカン 』本書は、1967年に日本語に訳され発売されました。文体からは古臭さは感じられません。読みやすく、分かりやすい小説です。しかし、登場人物の名前は、がんばって覚える必要があります。

イギリス生まれの作者ラーフ・フォックスは、マルクス主義者です。マルクス主義を掲げ、スペイン戦争に参加。37歳の若さで戦場に散ります。『 ジンギスカン 』が発売されてから、共産主義を掲げた国によって、ジンギスカンの名前は封印されます。封印されるだけでなく話す書くのも禁止されます。ラーフ・フォックスが生きていたら何を思ったでしょうか。

ナチュラリスト・エッセイ

フライ・フィッシング

たとえばここに本邦未訳だけれど、E・グレイの『フライ・フィッシング』というソッケない題の本があるが、これは一生を毛鈎(けばり)でマスを釣ることに費してきたイギリス人の外交官の自伝である。右の眼は冷めたく、左の眼はあたたかく、“歌”を歌としないで書きつづった、淡々とした名文である。

引用元:開口閉口

未訳だったが、開高健が監修をつとめた『 フライ・フィッシング 』。

その本の特徴を一言でピシャリと言わなければいけません、と開高健がどこかで書いていたように記憶しています。引用部分を読めば、この本の特徴をピシャリと解説しています。

質実剛健なジョンブル魂のような単純な文章のなかに、春の陽光のほがらかさ、自然の空気を吸いこむ喜び、魚とファイトする愉しみがちりばめられている名文です。

万年筆の先から釣りをする喜びがあふれだしてはいますが、ペン先は踊らず跳ねず、石に字を淡々と削りいれるような冷静にして沈着な文章です。

自然の風景を描きだす文章は、どことなく開高健が書く文章から艶と驚をとりはらった文章のように感じました。

開高健が『 開口閉口 』にて、このような文章を書いています。夕暮れに毛鈎を落としたグレイ卿。視力の低下から毛鈎を見つけられなかった、それからは釣り竿を置いたと書かれているのですが、そのくだりの文章を見つけられませんでした。

毛鈎を落としたくだりの文章はありました。釣り竿を置いたくだりは見つけられません。

セルボーンの博物誌

セルボーンの博物誌を書いたひとは、暴れん坊将軍でおなじみに吉宗公の時代に生きたひとです。

英国イングランドの都市というよりも、市町村にちかいであろうセルボーンに過ごした作者が見たり、聞いたり、触ったり、試案したり、想像したりしたことを手紙にしたためたものをまとめたものが『 セルボーンの博物誌 』です。

200年から300年ほどまえに生きたひとが書いた本です。いまでは間違った情報もありますが、ピシャリと推測どおりだったという説もあり、その推測ゆえに評価されました。

野鳥の観察について書かれたものがほとんどです。わたり鳥が、いついつ飛来した、そして、いついつ飛びたっていたと淡々と書かれています。なにを食べているのか、どこで営巣するのか、鳴き声はどのようなものか、どのような寄生虫に苦しめらているか、空中で性交しているなどを簡潔に分かりやすく書かれています。

爆発も血が飛びちったりしない文章です。若いかたはツマラナイと思われるかもしれません。太陽が沈みゆく陽光を眺めながら、ほがらかな温かい優しさを感じる朴訥な文章。また、布団にもぐりながら1ページ1ページめくっていると、布団をセルボーンにスライドされたように感じられ、いつもの機械の喧騒から離れ静かで陽気な自然の音が聴こえてくるようなリラックス効果を感じられます。

『 セルボーンの博物誌 』を読みだすと、せかせかとした日本でも優雅に、健気に生きている野鳥たちの姿を見つけられるようになりました。また、野鳥の鳴き声などが聴こえるようになります、ムクドリなどは、はらだたしい鳴き声ではありますが。ほがらかに自由、自由であるがゆえにストイックに生きる野鳥の姿が眼に染みるようになりました。

金魚についても書かれており、あの時代にイギリスに金魚がいたのかと驚かされました。金魚が死をむかえる様子を興味深く見守りながら、騒がず、慌てず、誇張せずに金魚の死ぬ姿を淡々を書きつらねる冷静な眼をもつ作者は、ナチュラリストにして学者にしてライターだったのかもしれません。

スパイ小説

スパイになりたかったスパイ

開高健は、エッセイのなかで小説を書くときは、ほかの人の小説を読まないと書いています。スパイ小説や動物の図鑑を読んでいたそうです。

開高健が絶賛していたスパイ小説のひとつ『 スパイになりたかったスパイ 』は、開高健が解説を書いています。

何でもいいから面白い物語を読みたがっている、退屈で死にそうになっている人におすすめします。

引用元:スパイになりたかったスパイ

ロシアがまだソ連とよばれていた時代の物語。

序盤はほんとうにツマラない。この人の描写は必要なの?この設定はここまで丁寧に書かないとダメなものだろうか。と退屈しながら読みすすめていくと、中盤あたりをこえると、ドンドンと設定や伏線をとりこみながら、物語が進んでいくのです。

物語としては、ドタバタ勘違い系、パロディ、ピリっとした風刺小説など、読んだ人によってうけとりかたは変わるでしょう。

コメディ小説のように感じました、あなたはどう感じるでしょうか。

白い国籍のスパイ

『 スパイになりたかったスパイ 』と一緒に開高健が、おもしろいと絶賛していた『 白い国籍のスパイ 』の下巻光の部を読みました。

上巻下巻とも現在では、中古でしか手にいれることができず、上巻は5,000円ほどします。下巻は1,000円ほどで買えました。ところどころ理解できない部分はあったものの、だいたいのストーリーは分かりました。

第二次世界大戦の終結するちょっと前の時期が舞台。ショートストーリーがいくつも重なりあい物語はすすんでいきます。

『 白い国籍のスパイ 』の主人公はなろう系でいうのであれば巻き込まれ系主人公です。暴力で闘うタイプの主人公ではありません。知力と知識で危機をのりこえるタイプのスパイです。自分と他人を助けるために、必死に努力する主人公の姿は恰好よく男が憧れる男像です。そして主人公は、女性にモテル。

『 白い国籍のスパイ 』の一番の特徴は、主人公が料理を作り、レシピを書いていることでしょう。書かれている料理のレシピは手がこんでおりプロ並みの料理です。料理を作るのですが、食べた感想があまり書かれていないので、どのような味だったのかを想像するのは愉しい時間でした。

開高健が選ぶノンフィクションの傑作

  • アンネの日記
  • コン・ティキ号探検記
  • 反乱するメキシコ

まだ無限にあるけれども、ノンフィクションの傑作として、とりあえずこの三つを推薦したい。

引用元:開高健の文学論

『 アンネの日記 』は暗い話、気が滅入りそうなので、いまだに読む気になりません。

コン・ティキ号探検記

ポリネシア人(オーストラリアの右上あたりの諸島に住む人々)の起源は、Where,どこなのか。フィリピンや台湾から丸太舟で移住してきた説が有力です。この本の作者トール・ヘイエルダールは、古代ペルー人がペルーからポリネシアに移住してきた仮説をたてました。

トール・ヘイエルダールは、仮説がただしいことを証明するために、ペルー沖からポリネシア諸島への航海に挑みます、丸太の筏(いかだ)で。

航海と書きましたが、はんぶん漂流じゃないの、と思いました。航海をした年は1947年。第二次世界大戦が終わったころです。GPSなどない時代に帆をたてた筏で太平洋にのりだしました。

航海のようすは、学者さんらしく、正確に書かれています。形容詞などあまりなく、よく言えばハードボイルド、わるく言えばすこし味気ない文章です。

魚釣り、突風で飛んでくる魚、未知の巨大静物との遭遇。ノンフィクションだけど、そこらへんのフィクション冒険小説よりもワクワクドキドキすること間違いなし。

反乱するメキシコ

『 反乱するメキシコ 』は、メキシコ革命を書いたルポタージュ。メキシコ革命は、1910年~1917年のあいだ続きます。書いた作者は、ジョン・リード。のちに『 世界を揺るがした10日間 』を書き有名になります。『 世界を揺るがした10日間 』のほうが、世界的には有名でしょう。

メキシコ革命という言葉をはじめて知りました。みなさん知っていましたか?

ジョン・リードは反政府軍に従軍します。ジョン・リードは、5分間おなじ場所に滞在すれば、その場所の描写ができると言われていた観察眼のするどい作家です。大きい眼でみた、そのままのメキシコを書き記しています。戦争の描写、虐殺など血なまぐさい文章もありました。そんな血なまぐさい内乱中でも、メキシコに生きる人たちは明るく、陽気、人にやさしく、音楽を愛しています。日本人がいだくメキシコ人のイメージそのものです。

取材中に政府軍の襲撃にあったジョン・リード。命からがら逃げだし九死に一生を得ます。このあたり開高健のベトナムルポタージュと通じるものがあり、そのあたりを開高健が気にいったのではと想像しました。

開高健が絶賛した作家や本を読んだ感想【 まとめ 】

膨大な数の作家や作品がおもしろかった、と開高健はエッセイで書き、対談で話しています。

絶賛された作家や作品から、開高健が影響をうけた文体、文章はどこだろうな、と探しながら読む作業は、文豪開高健に近づく第一歩のように考えるのです。

おすすめされた作家や作品はおもしろく、時間がたつのを忘れて読みふけった作家や作品たちでした。

おおくの文章を書いた開高健。書くだけでなく沢山の文章も読んでいたのです。名文を書くには、名文を読むのが1番である、と書いたのは丸谷才一だったろうか。

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