『 冬への順応 』読書感想文 ネタばれあり 書かれていないことへの順応

書評

「 メロスは激怒した 」
冒頭が有名な小説のひとつ。
メロスは、激怒しているとわかる。
竹を割ったように単純明快にメロスの気持ちがわかる。

けれども、人間の気持ちとは、そんな単純な言葉だけで伝えられるものだろうか。いや、伝えられないと思う。
人の生死に触れた瞬間、死のおとずれを想像したときに、人の気持ちを言い表す言葉が見つかるだろうか、気持ちにピタリとあてはまる言葉が見つかるだろうか。

『 冬への順応 』は、登場する人物の気持ちがほとんど書かれていない。読者に想像させる文章だと思った。

パキパキと霜柱のように簡潔であり、清潔な文体は、ハードボイルドの亜種ともいえる。目でみたこと、手でさわったこと、肌でかんじたことは書かれている。
しかし、登場人物がなにを思っているのか、なにを考えているのか、なにを思って行動したのか、それがほとんど書かれていない。

登場人物の気持ちを考えずに、風景だけを眺める読み方もできると思う。一方で、登場人物の気持ちを考え、想像し、懸想する読み方もできる。

登場人物の気持ちが書かれていない。読者が文章に順応する必要がある小説だと言える。

主人公は、医者であり、東南アジアの国の医療ボランティアに従事していた。家の玄関をカラカラとあけるように物語がはじまる。激怒した、などと強く物語ははじまらない。
なぜ、東南アジアにボランティアにいったのか、その気持ちも書かれていない。Whyがわからない。

その医者がつとめる病院にひとりの女性が入院してくる。その女性と医者は、大学時代にすっぱく淡く痛い恋愛をくりひろげた。
恋をしているだろうな、失恋したナとわかる描写はあるが、悲しい、悔しい、などと書かれていない。どんな気持ちなのだろうか、と想像するしかない、医者と女性の気持ちを。

死神のカマがちらつく女性。二人は別れ、別々の家庭をきずいていた。彼女が何を思って入院してきたのか、それも書かれていない。

が、女性の母親が彼女の気持ちを医者に伝える。
気持ちが書かれていない、冷たい文章に火がくべられたように熱く燃えあげる瞬間だ。
文章に血がかよい、彼女の気持ちがまぶしい閃光となり輝く。

たしかに、女性の母親の訴えには、熱がこもってはいる。だけども、私の想像でしかないのだが、医者と別れたあと、エリートと結婚し、離婚し、そして病におかされた彼女。
いまさら、目のまえに現れても「どうせぇ、ちゅうねん」と思いませんか?

おそらく、医者は私ほど薄情者ではないので、彼女と話す。そして、彼女との想い出にひたる。
彼女と話し過去を思いだした結果なのか、医者は寒村への病院へ出向する。ここでも、気持ちが書かれていない。大学時代に彼女とふたりで病院を運営する夢を語っていたとは書かれている。読者は想像するしかない、医者の気持ちを。
死にむかっている彼女を見ているのが、辛かったので逃げ出したとも考えられる。いろいろな受け止め方ができると思う。

病院と東南アジア、そして、この小説のキーワードのひとつに釣りがあげられる。
釣りが趣味の医者。とつぜんな印象をうけるが、そんなもんだと順応するしかない。そして、彼女の身に不幸なことがおこるたびに、医者は、なぜか、大量の魚を釣りあげる。
おそらく、きっと、現実では釣れないであろう量の魚を釣りあげる。
なにか女性と魚に関係があるのかもしれないと考えるが、答えは書かれていないし、想像するしかない。悶々と考え続けるしかない。
彼女の生命力を魚のように釣りあげている、そのような描写なのかもしれない。人それぞれの考えかたがあると思う。

そして、生命力を釣りあげられた彼女は死ぬ。彼女が死んだ瞬間に医者はたちあわない。彼女が死ぬ描写もない。彼女の気持ちも書かれていない。

釣りを終え家に帰った医者。病院から電話があったことが伝えられる。病院へ電話をかけなおす。そして伝えられる。

「午前十一時二十七分だった。解剖の結果は、予想以上に広範な胸膜浸潤だった。心外膜にまでいってやがった。これが死期を早めた。それでも、人工呼吸器につないで四日間もたせた」

引用元:冬への順応

この電話をきった次の瞬間、医者が釣りあげ家にもちかえっていた魚のワカサギが生きかえる。

そして、物語は終わる。

『 冬への順応 』を読んだあとの気持ちを言いあらわす言葉をもたない。

あなたは、『 冬への順応 』に順応できるだろうか。

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