『 虚構船団 』は虚構を超えた現実かもしれない【 読書感想文 】

書評

『 虚構船団 』を読んだ。この小説を語る言葉を私はもたない。

もたないと書きつつ、文章を書くのであるから、モノカキといった人間はつくづく不思議な存在だと思い知らされる。

この記事は『 虚構船団 』を批評しようなどという大それた考えたものではない。

『 虚構船団 』を批評するのであれば、

存在の鎖(宇宙を神・人間・動物そして無機物に至る堅固な階層的秩序と捉える世界観)に基づいた形而上的楽観論の体系ぐらいは心得ておかなければ、ならないと書かれている。

形而上という言葉は、知っていても、しっかりと説明できない。
生きていくうえで触れる機会がない。
形而上という言葉にふれる機会は、哲学書や批評文でしか触れる機会はない。

筒井康隆さんは、作品を不当に貶められたら、てひどく反撃することでも有名な作家でもある。
批評家に反論するために、批評方法を学び、反論しただけでなく、あげくのはてには『 文学部唯野教授 』を書きあげている。

小説や文章の批評をなされたいとお考えのかたは、『 文学部唯野教授 』を一読されることをオススメする。
小説の批評など大それたことをしてはいけないと思いしらされますゾ。

それでも、果敢にも無謀にも『 虚構船団 』の批評を書いた人間がいた。
筒井康隆さんは、ひとつひとつ批評をひろいあげ、あほ、ぼけ、と徹底的にやりこめる。
ふわふわと浮き立つような筒井康隆さんとの批評合戦をくりひろげたいかたは、『 虚構船団 』の批評に取りくむという楽しさをもてる。

ただし、そのまえに存在の鎖の体験ぐらいは心得ておく必要がある。

批評でないのならば、この記事は、なんなのだ。

たとえば、月夜に照らされた柳の葉っぱでツチノコが首をつっていた。
もしくは、満点の星空を飛ぶ白い飛行物体を見つけた、それはネス湖でネッシーが射精した精子だった。
ならびに、西洋便器に腰をかけ、ズボンをぬいだ瞬間につるりと大便が滑り落ち、その大便がオギャーと産声をあげた。
なんだか、そんなスゴイモノを見た、聞いた、体験したときに他人に話したくなる、そのような心境だろうか。

余談になるが、筒井康隆さんは『 虚構船団 』を書きあげるのに六年の時間を費やされている。
大便のようにスルリと生まれ落ちたものではない『 虚構船団 』は。

みてみて、きいてよきいてよ、この小説スゴイよと吹聴してまわりたい気持ちになる。

『 虚構船団 』は、そんな小説です。

『 虚構船団 』のストーリーをまとめるならば、宇宙空間を航行する船団がある。
その船団の一隻が、ある星に住むすべての生物の抹殺を命じられる。

さぁ、抹殺を命じられた船のクルー。抹殺を命じられた星に住む生物の運営やいかに。

あらすじを読むかぎりでは、普通の小説ではないか、と思われたかたもいらっしゃるでしょう。

甘い、ギムレットにいれられたシロップのように甘いと言わざるをえない。

物語の第一章は、船のクルーの姿や生活、精神状態が書かれている。船のクルーは、ほとんど、いや、ほとんどのクルーが狂っている。

いつごろから航行をはじめたのか、航行している期間はいかほどか、詳しくは書かれていないが、もともと狂っていたクルーもいるが、航行中にクルーは狂いだす。

登場するクルーの登場人物は、メモをとる必要があるほどの数にのぼる。
人数と書かなかったこと、ここに注意しておいてくださいね。
しかし、メモをとる必要はない。クルーの精神分析が秀逸であり、あなたの身のまわりにこんなヤツいるな、こんな狂ったヤツがいたら困るな。
いや、まてよ、こいつは私のことを書いているのではと不安にさせられたりもする。
すべてのクルーの精神状態から性格までをシカッと脳に記録させられる。

また、大江健三郎いわく、100の文体をあやつる筒井康隆さんは、登場人物のセリフを30cm定規ではかったように書きわけている。
なによりもクルーの姿が特徴的なので、記憶に残りやすく、また親しみやすい。

すべてのクルーは文房具なのである。名前も硯であったり、分度器であったり、下敷きであったりする。

文房具が、どのように歩いているのか、どのように船を操縦しているのか、そのあたりは、頭のなかで想像し、妄想し、虚構にておぎなう必要がある。

コンパスが歩くと書かれているだけで、いろいろと想像させられる。針の部分が足なのか、針の部分が床にささらないのか、どこが口なのだろうかと本を読むのをやめ、いったん本を机に置き考えこむ。
目のまえにコンパスを置き、コンパスがたちあがったら、どんな声をだすのか、どのように歩くのか真剣に考えぬく愉しみがある。

文房具を使った実験的手法もとりいれられている。

ホッチキスが突然コ

        コ

        コ

        コ

        コと笑いだした。

この文章を読んだ瞬間。0,0005秒ほど意味がわからず、かたまり、

私は、ハ
   ハ
   ハ
   ハ
   ハと笑いだした。

鬼才の真似をしてみたところで、凡才である我が身ではとてもとても。

そして、第一章の最後に文房具たちは、ある星への出撃を命じられる。そして、星に生きる生物をすべて根絶やしにせよと命じられる。
お祭りの前夜のように狂いながらも出撃する文房具たち。

そして、白い光に包まれる。

第一章がおわり第二章がはじまる。

文房具たちの話が続くだろうと考えていた読者は、第二章のはじまりに戸惑うだろう。
地球によく似た歴史が書かれている、第二章には。
地球の歴史なのかと思っていると、まったく違うとすぐにわかる。
なぜなら、文明を築きあげているのがイタチ族の仲間だからである。

筒井康隆さんは、歴史小説ではなく、歴史を書きあげた。
歴史を学び知った作家は、自分なりの世界史を書けると筒井康隆さんは書かれていた。
筒井康隆さんは、オンリーワンの世界史を実際に書きあげたわけだ。

第二章は、筒井康隆が記憶にのこった世界史のイベントを集め、つなぎあわせ、構築されたプライベート世界史だ。

義務教育で世界史を習っているかた、もしくは、なにかの小説やエッセイで歴史上の人物を知っているかたは、あっ、ここはナポレオンだな、ここはカエサルだな、ここは妲己だなとニヤニヤしながら読める。

イタチ族は、イタチの最後っぺといわれるほど死ぬまぎわに目に痛い放屁をかます。
全編、血にまみれた毛皮をはりつけ、眼に痛いほどの放屁にまみれた筒井康隆プライベート世界史をたっぷりと愉しめる。

モノカキであれば、だれもがプライベート世界史を書けると筒井康隆さんは言う。

『 虚構船団 』を読み、刺激され、プライベート世界史を編んでみてはいかが。

第一章と第二章について、言葉をつみかさねてきた。

私が語る言葉をもたないと思わされたのが第三章である。

文房具とイタチが殺しあい、犯し、内臓を喰らい、放屁をかまし、狂った文房具により核が使われ、筒井康隆氏が登場し、文房具とイタチのハーフが生まれたりする。

また時系列も飛びに飛ぶ。義経よろしくピョンピョンと飛びまわる。

文章にふりおとされないように必死にしがみつくのでなく、書かれていることは、そのようなものなのダと思うしかない。

推測になるのだが、ノーベル賞作家でもあるマルケスの『 族長の秋 』に過分に影響されて書かれたのが第三章だと考えた。

虚構のなかの出来事は、虚構の枠をでないのか。
または、ひろい宇宙のどこかでくり広げられている預言者筒井康隆さんが語る実在の話なのか。

第三章は、布団にもぐりこみ、目は『 虚構船団 』に集中させ、脳はヒュプノスのきまぐれに任せながら読むのに最適だ。

アルコールを胃にぶちこむとなおよし。

そして、虚構を超えた手ごたえのある物語は、このようにしめくくられる。

「ぼくはこれから夢を見るんだよ」

引用:虚構船団

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